ぶっとびの生きてる間

ツイッター以上、ブログ未満

「やった感」に誤魔化されず「やってなくてもOK」を出したい

ほとんど毎日ブログの更新をしてそろそろひと月経つわけだが。

更新すると、今日も「なんかやった感」があっていいなと思う。
何もしない日が悪いわけではないんだけど、でもなんか今日も「何かをやったんだ」という満足感があるというか。「活動したぞー」という充足感というか。
だからOK!、的な。

でも、その「なんかやった感」に誤魔化されてるような気もする。
本当はさして大したことしてないのに、「今日はなんかやったからいっか〜」っていう、他のことをやらない理由になってたりしないかね。
「やった感」で、いろんな不都合なものを隠してやいないかね。

 

そもそも、活動しなきゃいけないもんではないのよ。

わかってるけど、でもなんか。「インターネット上で何かしらの活動をしている自分」でいたいというか。
いなければならない、ってくらい強いものではないけど、多少そういう意味合いも含んでる気がする。

作曲、楽器演奏、ブログ、など。
なんかこう……周りに「やってる感」を見せていたい、みたいな感じかなぁ。

活動してますよー。
ぶっとび、何もしてないわけじゃないんですよー。
大丈夫ですよーやってますよー。

みたいな。それをふれまわっていたいというか。
(周りに見せたいってだけで活動してるわけではないんだけど。でもそういう面も少なからずあるかなぁという)

 

別に何もしなくてもいいのよ、と。自分に言ってあげてるんだけどね。

やっぱり親の教育のたまもの(弊害)なのかなぁ。
「ずっと遊んでたんだから少しは手伝いなさい!」と「『今日は勉強頑張ったから楽器の練習しなくていいや』が許される環境」っていうのが、
「何か(親に認められる)活動をすれば遊んでもいい(=やりたくないことをやらなくていい)」になってる。みたいな?

ありそ〜〜〜!!笑

 

そういうものから自分を解放してあげたいよね〜。

「活動したからOK!」で「活動してないからダメー!」じゃなくて。
「活動した!OK!」で「活動しなくても!OK!」

どっちを選んでもいいんだっていう自由をもっていたい。

やった感の満足感・充足感はいいんだけど、それがやってないときの罪悪感に繋がらなければもっといいよね。