ぶっとびの生きてる間

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お別れはさみしく、変化が嫌だって話

彼氏と別れたわけでも猫が死んだわけでもないですし、オンライン上の特定の誰かとのことを指してるわけではないですが。

何かとのお別れっていうのはどうしてこんなにさみしいんだろうねぇ。

 

私は変わっていくのが嫌だという気持ちが強くって。
それは今が幸せってことの証でもあるのでいいことでもあるんだけど。

でも何もかも、確実に変わっていくわけで。
だから変わらないっていうのは無理なんですよ。

この、どうしようもないことに対してあまりに「嫌だ」ってなってるのは、ただ本人が辛いよねっていう。
でもその嫌だって気持ちをどうすることもできてない、現時点では。

どうにかしたいから、本を読んでみたり、意識を変えてみようと心がけたりはしてるんだけど。
でもいざそういう場面に直面すると、結局ずっと変わらない心の動きだなぁという。

楽しい時間を過ごしてるときに「あぁ終わっちゃうのさみしいなぁ」って横切るのもやめたい。くそう。

 

だからだと思うんだけど、終わらせることが苦手です。
結局だいぶ前にやってたツイキャスも、終わりの回とか作らずなんとなーく終わってしまったし。

楽しいことを自分の手で終わらせることができないんですね。

嫌になってしまったものを終わらせるのはできるんだけど。不快なものを排除するのは、その後に快適が待ってるのがわかってるからね。

でも「昔楽しかった」とか「昔好きだった」ものを終わらせるのも、だーいぶしんどくて苦手。みんなそうかなという気もするけど。

 

とかいって、自然消滅される側になるのも嫌っていう。
それはつまり、私の気持ちが薄くなってく頃を見計らってお別れするならいい、ってことか?

なんというわがままよ!!!!!

 

だからアカウント変えて前のは消すとか、SNSをやめるとか、そういうのを見かけるたびにすごいなと思う。

なんかそういう、スッキリとした、カラッとした、潔い感じ。憧れる。

うだうだと執着してしまって、楽しかったこととか幸せだった時間を思い出してべそべそするのもやめたい。

まぁべそべそする時間がないと立ち直れないので、そういうときは思いっきりべそべそするんだけどさ!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

いつも思うけど、こういうとき思い出して泣けるのって幸せだった時間なんだよね。
猫が死んだときの辛く苦しいことよりも、一緒にいた楽しい時間を思い出す方が泣けてくるの。
不思議ね。幸せだね。

 

好きだって気持ちの向かう先がなくなるから、辛いのかなぁ。

それもどうして辛いんだろうね。好きだって思ってるだけでよくない?って思うんだけど。

 

手放すこと、手放されることを怖がりすぎだと思う。

根本的にさみしがりだから、なくなっていくことが怖いのか。

 

うーん、人生〜〜〜!!!